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2011-10-14 00:00
(連載)日米同盟の深化と平和国家は両立するか?(1)
河村 洋
NGOニュー・グローバル・アメリカ代表
ここ数年、日本では毎年のように首相が代わっている。また、経済の不振と国際的地位の低下を憂慮する気運も漂っている。そうした頼りない政情に鑑みて、日本政界の御意見番として知られる中曽根康弘元首相が、9月15日放映のNHKニュースウォッチ9で大越健介キャスターのインタビューに応じ、日本の将来への指針を語った。東アジア共同体評議会の会長でもある中曽根氏は、3・11地震を受けて災害に強い国造りを訴えるとともに、自由民主国家としてのソフト・パワーの重要性を訴えた。また首相の責務に耐えるための自己研鑽の必要性も説いた。そうしたインタビューの内容には感銘を受けたが、日米同盟の強化と平和国家を共に日本の基本的な指針としたことに対しては私見を述べたい。それは、1991年の湾岸戦争で典型的に見られたように、憲法9条に基づく平和国家では日米のみならず国際社会とも安全保障での協力で矛盾を抱えることが明らかになったからである。
中曽根会長は「日本が先の大戦でアジアの国々に迷惑をかけたことを忘れてはならない」と力説した。確かに太平洋戦争期の軍国主義への回帰は否定されるべきであるが、世界は過去への悔恨から抜け出せぬ日本を望んでいるのだろうか?安倍政権および麻生政権はNATOとの軍事協力の強化を模索し、我が国と同様にアメリカと緊密な同盟関係にある先進民主国家であるヨーロッパ諸国から歓迎された。また、中国の軍拡に脅えるアジアの民主主義諸国も、日本の軍事的役割の強化を歓迎している。冷戦終結後の世界が、テロとの戦い、中露の再台頭、そして核拡散の脅威に直面する中で、日本だけが戦後を引きずって過去への悔恨に浸り続けるべきだろうか?
振り返って見れば、中曽根会長が政権を担った1980年代は、イラン革命とソ連軍のアフガニスタン侵攻によって中東情勢が日米同盟に大きな影響を及ぼし始めていた。アメリカはニクソン・ドクトリンを撤回せざるを得なくなり、それによって日本は安全保障でフリー・ライダーからの脱却が迫られるようになった。これは『百花斉放』の2010年6月21および22日付けの拙稿でのべたような「日米同盟グローバル化」の先駆けであった。こうした同盟のグローバル化に加えて多国間化を象徴するのが、RIMPACへの参加である。すでに前任の鈴木政権の時期に日本は太平洋諸国の合同海軍演習に参加していたが、その規模が拡大したのは中曽根政権からである。この演習には域内の自由主義陣営諸国のみならず、アジア太平洋圏外からイギリスまで参加している。ここまで大規模な国際軍事演習に参加したことが、後の小泉政権による自衛隊のイラク派兵につながっている。1980年代の防衛政策が後の日本に与えた影響は、これほど大きなものである。そうした業績に加え、中曽根会長は憲法改正論者でもある。にもかかわらず、平和国家を日本の基本的な立場としてしまえば、上記のような中曽根会長自らの業績と思想信念を否定するかのように聞こえてしまう。
日本にとって専守防衛の平和国家という足枷は、今なお重い。イラクではイギリス軍の指揮下で自衛隊は復興作業に当たったが、戦闘行為はできなかった。自衛隊が銃をとってテロリストを一人でも撃ち殺すことができたなら、共に作戦任務に従事したイギリス、オランダとも戦友としての一体感の醸成にもつながったであろう。何よりも、それはイラクの国民より歓迎されたであろう。そうなっていれば、国際社会での日本に対する信頼はもっと高まっていたであろう。現在、日本の本土への最も大きな脅威の一つとなっている北朝鮮の弾道ミサイルへの対処でも、専守防衛の原則に縛られるあまりにどの段階で迎撃するのかをめぐって神学論争になっている。(つづく)
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