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2011-09-30 00:00
大言壮語はするけれど、実行はゼロの指導者たち
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
大言壮語はするけれど、その割には目先のほんのちょっとしたことさえ出来ない、あるいはする気がない人、にお目にかかるのは、そんなに珍しいことではない。十年後の大改築計画については熱心に青写真まで作りかねないのに、現在ただいま雨漏りがしているのには、とんと無頓着という類いである。どうしてこんなことになるかというと、無邪気な話から狡猾な計算づくまでいくつかのパターンが見受けられるようだ。無邪気な方からゆくと、些細なことから思いを発展させてゆくと、そちらの方が心底大事に思えて、日常身辺のことなど、どうでも良くなるケースだ。かつての哲学青年などによく見受けられたパターンで、人生悠久の疑問にとらわれると、明日の中間試験などどうでも良くなって、勉強など手につかず、結果みごと赤点をとる、という具合である。さすがにこういう純情なのは最近稀で、むしろもう少し狡猾なのが増えているようだ。
その典型の一つが、先の菅総理の得意技と伝えられた「新しい問題探し」、つまり、解決が手に余る様な問題を抱えてしまったら、目くらましに新しい問題を提起して、そちらの方に衆目を集める。これを繰り返していると、常に新たな問題に挑戦しているかのごとくに映り、当面の課題に対する無能力を覆い隠せる、という仕掛けだ。しかし、これは必ずしも新たに提起する問題がより高次元のものである必要はない訳だから、ここでの例示として挙げるのには、やや適切さを欠くかもしれない。
これと似て非なるものが、愚民観に基づく問題のすり替えだ。なに、大衆などというものは、人の噂もなんとやら、目先を変えて一見高尚な問題にすり替えれば、些細な(と思わせるのも芸のうちだが)現実問題に対する対応能力欠如なんぞはすぐ忘れてくれる、というもの。芸に手が込んでくると、現実に問題だと思われていたものが、実はホントのところ問題でもなんでもなかったなどという、(権威付けの)資料まで用意するようになる。
もちろんこれ以外にも、丸バカで、問題の軽重は愚か、その所在すら認識しない、というのもあるが、さすがにそれはここでとりあげるのも憚られるような話だから、しばらく措こう。さて、勇ましくぶち上げた八ツ場ダム建設取りやめが、いつの間にか必要不可欠ということになる。仮設住宅も、洪水で立ち退かされているというのに、朝霞では取りやめになった筈の公務員宿舎が堂々と建築される。焼け太りの外郭団体は益々猖獗を極め、議員定数は愚か、公務員定数削減もどうやら沙汰やみだという。その一方で、10年間の増税だ、年金制度維持の為には消費税増額止むなしだ、日米安保の再確認だ、マニフェスト修整もありだ、という。こういうのは、先のパターンのどれに当てはまるのかしら、ね。
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