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2011-04-18 00:00
五百旗頭をして増税を言わしめる菅の裏操作
杉浦 正章
政治評論家
「国家存亡の危機に優れた指導者に恵まれたものだ」戦前の駐英大使・重光葵は敵対国首相・チャーチルをこう評した。不幸にも、今の日本は当時の英国がうらやましいと言うしかない。首相・菅直人批判の高まりの中で、半可通の評論家の間で、「この非常時に権力闘争をやっている時か」と言う発言がテレビでたびたび発せられている。しかしなぜ「菅は国難」「菅そのものが大災害」という合唱が生じているかについては、分析しようとしない。評論家やコメンテーターは、与野党の政治家がこれほどまでに批判する理由を、見極めていないのだ。その理由を一言で言えば、平時でも危ない菅が首相では、非常事態においてはなお危ないのだ。その危機感が政界に共通してきているのだ。単に「権力闘争」と形容するのは皮相的かつ通俗に堕している。この際、野党のあからさまな菅批判は脇に置いて、だれがみてもまっとうな判断を下す人物の菅評をまず紹介すれば、元官房副長官の石原信雄の発言だ。「自ら東電に乗り込んで注意をされたが、最高指揮官は一歩下がって、全体を見ながら判断を誤らないようにするのがよかった。対策の遅れにつながったことは否定できない」と述べたのだ。菅が3月15日に東電に乗り込んで怒鳴りまくったことを批判している。ヘリによる現地視察と併せて、明らかに原発対応の初動を遅らせたとしか言いようがない。温厚な石原から人を批判する発言を筆者は聞いたことがないが、その石原をしてここまで言わせたのは、よくよくのことであろう。民主党幹事長・岡田克也は「一段落したら検証する」と述べているが、この国家危急存亡の時に「一段落」を待ってなどいられないのが、政治の実態なのだ。
何代もの首相を見てきた石原が言うように、危機における指導者は、自らが先頭に立って動くべきではない。古来、国主が先頭切って突撃すれば、討ち死にの確率が高く、討ち死にすれば、その国は戦に破れたことになる。菅は長年野党にあって、政権の追及だけに専念してきた政治家であって、行政のトップとしての政治力は未知数であった。しかし首相になったときから、リーダーとしての“馬脚”は現れ始めていた。いくら何でも消費税増税を参院選挙のテーマにしては、政党としての民主党はたまるまい。結果は「衆参ねじれ」となり、自らのよって立つ基盤を危機に陥れた。このピントのずれが「菅政治」の根底を成している。大震災後の発言から首相・菅直人の適性を判断すれば、「東日本が潰れるというようなことも想定しなければならない」「30年間住めない」といった発言は、首相たるものが決して口にしてはならない発言だ。なぜなら、ピントが狂っている上に、国民に希望を与えるべきリーダーが、逆に国民を絶望の淵に陥れるからだ。あらぬ“風評”を招いてしまう発言でもある。リーダーの最大の要件は、その姿を見ただけで国民が“安心”する姿勢だ。ところが菅は、震災当初から悲観主義に貫かれてしまっている。チャーチルは「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」と述べている。悲観主義者では、危機の時に国民をリードすることはできないのだ。国民は姿を見ただけで安心するどころか、菅に運転を託していては、いつ“大事故”を起こすかと不安を覚えている。
会議の乱立は、官邸をパソコン機器の“たこ足配線”のようにしてしまった。どこがどうつながっているか分からないまま、あちこちでショートを起こしている。船頭多くして船山に上るだ。阪神大震災の時は、震災関連法案16本のうち半分の8本が約40日で成立した。これに比べ、今回はいまだに1本も成立していない。復興会議議長人事も二人から断られた上に、防衛大学校長・五百旗頭真を任命したが、驚いたことに五百旗頭は、まだまともな議論も始まらない会議冒頭の時点で、増税を口にした。「国民全体で負担することを視野に入れるべきだ」と震災復興税を唱えたのだ。それも職業柄なのか、横柄な上から目線での発言である。明らかに菅が五百旗頭をして言わしめている“裏操作”の存在を感じさせる発言である。事前打ち合わせで直接指示したか、少なくとも菅はそう発言することが確信できるから任命したか、のいずれかに違いない。かねてから失言癖のある五百旗頭は「阪神大震災の被災がかわいく思えるほどの、すさまじい震災だ」と就任早々馬鹿な失言をしているが、そもそも増税は、政治の最高判断を要するマターである。諮問機関の議長クラスが議論もせずにリードするような事柄ではない。菅は増税路線を取るならとるで、自ら国民に向けて訴えるべきである。自分の姿をみせずに“操る”のでは、ますます国民は菅を信用出来ないではないか。
野党との大連立も、いきなり谷垣に電話して「あなたは責任を私と分かち合うつもりがないのか」では、成るものもならない。渡部恒三が「あの場面は、菅が『今は与党だ、野党だ、といっているときではない。私が副総理になるから協力してくれ』というべき場面だった」と漏らしているとおりだ。ことの運び方が分からないうえに、自らの言動の“効果”を推定できないのだろう。石原信雄は菅と会った後、「非常に疲れておいでのようで心配だ」とも述べたが、4月17日のクリントン米国務長官との会談に姿を現した菅の姿は、まさに疲労困憊で、一挙に10年も年をとったような印象を受けた。一回りも二回りも小さくなってしまったのだ。大震災直前に外国人の政治献金が発覚して、進退窮まったのが菅の姿だったが、現在の重圧は、震災前の比ではあるまい。毎晩ブラックホールに吸い込まれるような感覚に陥って、睡眠もとれないに違いない。政界だけではない。国民も見限っている。18日付朝日新聞の世論調査によると、大震災への菅内閣の対応は「評価しない」が60%、「評価する」が16%だった。原発事故への情報提供は「適切でない」が73%、「適切だ」が16%だ。もはや「こんな時に」ではなく、「こんな時だからこそ」首相は交代すべき、という段階に陥ろうとしているのだ。
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