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2011-04-01 00:00
3・11にあたり「天皇の存在」について考える
花岡 信昭
拓殖大学大学院教授
腰をかがめ、あるいはひざをつけられて、両陛下は被災した人たち一人ひとりに話しかけられた。救援作業の邪魔にならないようにと、3月30日まで待たれ、都内の避難所へのご訪問となった。陛下の国民向けメッセージといい、計画停電に合わせて毎日電気をつかわない時間帯を設けられていることといい、目がうるんでくる。戦後最大級の大惨事にあって、「天皇の存在」を改めて考える。
「天皇制」という言葉があるが、これは妥当かどうか。「制」がつくと「制度」ということになる。制度なら、これを変えることができてしまう。憲法にも、本来は天皇条項はないほうがいい。
憲法に書いてあると、改正できることを意味するからだ。日本国と天皇は不即不離の関係にあり、日本という小宇宙の中心に、政治的行動をしない天皇の存在がある。これが日本人のアイデンティティー、共同体意識の根幹にある。日本における「天皇の存在」は、統治システムの安定という観点から見ても、世界に誇れるものだ。
米国の大統領制も、統治システムからすれば民主主義を具現化したものとして評価していいのだろうが、「日本の天皇」にはかなわない。早い話、なんともはやの首相を擁していても(いまの人のことだけを言っているわけではないのだが)、この国がもっているのは、首相は政治分野、行政分野のトップにとどまっているためだ。現地視察に執着している菅首相だが、被災地に出向いたところで、涙ぐむ人はいないだろう。逆に石が飛んでくるかもしれない。3・11は、日本という国のありようをも考えさせる機会となっている。
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