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2010-11-14 00:00
(連載)外交判断として船長釈放とビデオ流出の是非を考える(2)
若林 洋介
学習塾経営
以上の議論が、今回の海上保安官による尖閣ビデオ流出事件の背景にあることは確かであろう。「国境警備をまかされているオレたち海上保安官が、命がけで逮捕した中国人船長を、中国側の力に屈して釈放した日本政府は断じて許しがたい」という論理だ。しかしながら、ここで海上保安官は、中国側に拘束されている4人の日本人の安否のことを考えたのだろうか。また一海上保安官に、拘束中の4人の日本人の安全に関する責任観念を期待できるであろうか。
おそらく自分の職務に対する使命感・責任感・正義感のレベルでしか考えが及ばないことは、確かではないのか。このような保安官の論理を背景にして、次の行動が生まれたということなのではないのか。すなわち「国民世論も尖閣ビデオの公開を求めており、日本政府が公開しないというのなら、オレ分(海上保安官)が公開して、尖閣事件の真実を明らかにしようじゃないか」。
国境警備にあたる海上保安官の任務は、非常に重い任務であることは、誰しもが認めるところであろう。自衛官の場合もそうであるが、重要な任務であればあるほど、権限の乱用、逸脱は大きな国家的損失を招きかねないものであることも確かなのだ。2年前の尖閣沖(日本の領海内)における台湾漁船と海上保安庁巡視船の衝突事故にも見られたように、日本側(海上保安庁)の主張に過誤があることが後日判明し、台湾側に謝罪・賠償までさせられたこともある。
海上保安官や自衛官が、自らの職責に対して使命感をもち、責任感を持って行動することは、立派なことだ。しかしながら、現場の一海上保安官の職責に対する使命感と正義感のレベルで、国家の外交政策全体にかかわる判断をしでかそうというのなら、それは全くのスジ違いというものだ。政府が、外交政策の一環として行っている行動よりも、現場の一海上保安官や一自衛官の正義感や使命感が優先されるということならば、国家としての外交・安全保障政策は全く成立しなくなることは、確かではないか。(おわり)
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