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2010-08-02 00:00
(連載)東アジア史における日本の特異性(1)
河村 洋
親米・国際介入主義NGOニュー・グローバル・アメリカ代表
近年、日本の政策形成者の間で東アジア共同体の建設に向けた議論が高まっているが、その中で忘れ去られているのは、中華冊封体制との関わりでの日本の歴史的な特異性である。その特異性は、近代以前と近代以降の両面から理解されねばならない。
東アジアの近代史で最大の出来事はアヘン戦争である。ビクトリア女王の艦隊が中華帝国を破り、中華秩序は破壊された。中華帝国は大英帝国による自由貿易とロックの自由主義という世界秩序に引き込まれてしまった。アジア諸国民の殆どは、西洋文明の衝撃がもたらした本当の意味を理解できなかった。日本人だけがそれを深刻に受けとめた。他のアジア人が西洋文明を理解できなかった、あるいは理解しようとさえしなかった、のはなぜだろうか?
これは東アジアの近代史の根本的な問題である。日本人は中華帝国による平和と安定はもはや続かず、自分達はビクトリア女王の世界秩序に適応する必要があると結論づけた。そのため、日本国民は「脱亜入欧」というコペルニクス的転換を決断した。アジア東海岸沖の排外主義の国民は、突如として拝外主義の国民に変身し、史上例を見ない情熱で西洋的な思考様式を吸収した。最終的には日本自身が欧米列強の仲間入りをしてしまった。このようにして日本国民は自ら暗黒時代から抜け出て行った。
明治の近代化以前の日本は、聖徳太子が隋の煬帝に宛てた国書に見られるように、中華冊封体制の圏外にあった。中華皇帝に臣従を誓った日本の支配者は足利義満だけと言っても過言ではない。そうした日本は独自の洗練された文明を持った東アジアでは独特の国ではあったが、他とは隔絶した高度な文明国ではなかった。西洋文明の影響に正確な評価を下したことで、日本は他の東アジア諸国とは隔絶した高度な文明国になれたのである。(つづく)
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