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2010-03-21 00:00
環境変化にもろかった核家族制度
四条 秀雄
不動産業
私は、仕事柄たくさんのお宅におじゃまして、1000軒以上の家族というのを見る経験をしましたが、高度成長期に持て囃された核家族というのは、本当に脆いものだと実感しています。高度成長期というのは、成長しているが故に安定してた時代で、田舎から集団就職で都会に出てきた男女が、核家族を形成し、その維持が可能な幸せな時代だったと思います。失業率が2%以下で、ほとんど完全雇用状態でした。ですから経済的理由で家族が崩壊するというようなことは少なかったわけです。しかし私が今見る核家族はバラバラです。かつてのマイホームの中に、死別、離別の片親家庭があったり、比較的安寧な人生を送ったとしても、子供が独立し、老人だけとなった家庭であったり、経済的理由から結婚できない若い世代の引きこもりを抱えた家庭であったりしています。
比較的元気があるのは、結婚したばかりで、新築の家を構えたばかりの家庭と、三世代が同居、分居する家庭です。一番安定しているのは、三世代同居の家族でしょう。経済的にも年金や給与など複数の収入源が分散されていて、変化に強いですし、年寄りがこどもの面倒を見るというようなことも可能ですし、経験も豊富に持っていますから。反対に、大きな負債で新築を構えた若い世代の前途は多難です。失業などの一度の災難で、人生計画が吹き飛んでしまうし、その家族の子供もつらい経験を積んでしまう。夫婦別姓などの背景にあるリベラルな左翼的思想というのは、個人の自由を拡大したいという高度成長期の延長にある思想だと思いますが、今となっては経済的には非常に脆い家族を生んでしまう思想だと思います。
行き着くところは、フランスのように国家が、変動のリスクに曝されている個人を補助するような社会制度でしょう。こども手当もそのようなものだと思います。しかし現実にはフランスも、多数を保護する結果、少数の弱者にはキツイ社会であり、社会が直面している環境変化のリスクが、国家の成員に比較的満遍なく分散されている平等社会ではないと思います。多分、日本の方がまだリスク負担が分散されて、平等化されているのではないでしょうか?個人が自由や平等を追い求めた結果、逆に、さまざまな意味で脆弱性を抱え込んでしまったのではないかと危惧をします。個人の自由平等を追及するのに適した核家族を取り巻く環境も、かつてより非常に悪いと思います。
家を単位とした日本の伝統的な家族制度は、個人を縛り付けるだけの迷妄な旧習だと言われますが、それは環境適応に適した組織の単位であり、かなりの柔軟性と適応力を持っていると私は考えます。嫁姑の問題も、企業などの他の組織で起こる経営管理権の問題と本質的には違いはありません。また、全ての日本人が大家族を形成させられるわけでもありません。文化的な初期設定として、「迷った時は、三世代同居家族を選択してみる」というような状態になっていればいいわけです。夫婦別姓は、このような状況で追い求めるべき価値のある目標なのか?日本の家制度の方が環境適応能力は高いのではないか?これから将来のことを考えると、かえって昔のやり方に戻ったほうが賢明なのではないか?論理的にも経験的にもそのように思えてならないのです。
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