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2009-08-24 00:00
(連載)平知盛の死生観と現代世界(1)
入山 映
サイバー大学客員教授・(財)国際開発センター研究顧問
「見るべきほどのものは見つ」と言い残して、華やかな鎧と共に入水して果てた知盛が、ロンドン塔や万里の長城を見ていた筈もない。だからといって誰が知盛の死生観を嗤うことができよう。自己完結した小宇宙の中で生きている人間にとって、巨視的に見た相対的価値などというものは、そもそも存在しない。故に、どうでもよいことなのだ。などというと、ギリシャ時代の哲学者たちから総すかんを喰らいそうだが、そんな難しい話がしたい訳ではない。
なまじ1億人もの質の良い市場を持ち、それなりに知的レベルも高く、治安も保たれている国の住民にとっては、外の世界とは「ものみ」の対象にこそなれ、その生き方、ものの見方などというのは、まじめに向き合う対象にはならない。つまり、日本に住んでパック旅行を何回かすれば「見るべきほどのものは見つ」ということになりがちだ。そういうことを回りくどく述べてみたに過ぎない。
「それがどうした」ということなのだが、固有の価値観を保ちつつ、全く違った価値観を持つ人々と折り合いをつけることは、そもそも至難の業に属する。これは何も源平の昔に遡らなくとも、お隣の将軍様とのお付き合いに思いをいたせば、明々白々だろう。神学論争、という表現があるように、理念レベルの話で真っ向正面から向き合うと、ことは紛糾こそすれ相手をやっつける以外の結論にはなかなか達しない。
ついこの間までは、それを地で行けばよかった。どうにも我慢できない相手は、やっつけるのもあり、だったからだ。それが封じ手になっている今では、とにかく落としどころを見つけねばならない。さりとて譲れない、譲りたくない場面ではどうしましょう、ということになって、いくつかの譲れないことの間に優先順位をつけて、その心づもりを持って話し合いましょう、となる。(つづく)
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