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2009-06-27 00:00
(連載)北朝鮮核開発問題の経緯と展望 (2)
関山 健
東京財団研究員
結局、米国側の非難に反発した北朝鮮は、IAEA査察チームを国外退去させ、黒鉛減速炉による発電を再開して、IAEAから脱退してしまった。1994年に続く第2次北朝鮮核危機である。「第2次核危機は米国が招いたと言っても過言ではない」と、中国の元駐北朝鮮武官は言う。2002年時点で、米国は北朝鮮の核開発について100%の確証を握っていたわけではない。にもかかわらず、ケリー国務次官補は訪朝するなり「北朝鮮は核開発を行っている」と強く非難した。このことが事態を複雑化させた発端だった、とこの元武官は分析する。
実際、北朝鮮は2002年10月25日に「米国は、何の証拠もなく、わが国がウラン濃縮による核兵器開発を推進していると言いがかりをつけている」との外務省代弁人談話を発表している。ボタンの掛け違いは、このあたりから始まったといえよう。2005年2月には、北朝鮮政府は核拡散防止条約 (NPT) から脱退し、核兵器保有宣言を行った。これを受けてKEDOは、11月に軽水炉建設事業を廃止することで合意したが、これが北朝鮮のさらなる反発を招いた。すなわち、「ブッシュ政権はわが国に対する軽水炉提供を放棄した」と米国を非難し、黒鉛減速炉と軽水炉の独自開発路線を打ち出した。
その後、2005年9月には、六カ国協議での交渉の末、北朝鮮が「すべての核兵器と核開発計画を放棄する」一方、米国は「北朝鮮を攻撃する意思がない」ことを確認したことで、いったん事態が好転するのだが、それも束の間であった。この合意の裏側で、米国がマカオの銀行バンコ・デルタ・アジアに北朝鮮が保有する資金を凍結したことで、六カ国協議は再び膠着局面に入る。こうした米朝間の相互不信の積み重ねの結果、北朝鮮は2006年10月に核実験の断行へと踏み切り、今年5月25日には2度目の核実験まで断行するに至るのである。
北朝鮮の外交にとって最も重要なのは、言うまでもなく、米朝関係である。もともと北朝鮮外交は、(1)米国との直接交渉により自国の安全を確保するとともに、(2)これによって国際社会への扉を開いて、各国から支援を得ることを、当面の目的にしていたと考えられる。前出の元武官によれば、2002年頃の北朝鮮は、核開発について二つの選択肢の間で揺れていたという。一つは、核保有による安全確保。歴史を振り返っても、核保有国が攻め込まれたことはなく、北朝鮮は、イラク戦争でフセイン政権が転覆させられた過程を見て、核保有の考えを強めたとされる。もう一つの選択肢は、核放棄による安全確保と支援確保だ。(つづく)
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