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2009-05-29 00:00
(連載)昨今の日本論の提起する問題の深刻さ(2)
矢野 卓也
日本国際フォーラム研究員
上記のTobias Harris氏がその論文のなかで言及しているが、アウレリア・ジョージ・マルガン(Aurelia George Mulgan)というオーストラリアの日本研究者が2000年に、すでに「Japan's Political Leadership Deficit」という論文を発表しているそうだ。10年も前からすでに我が国の国家指導者の脆弱さが、日本以外の国々ですでにアカデミックな研究対象となっていたことになる。このような日本研究は、従来の日本論とはまったく異なる視点に立っているといえる。
「日本を真の先進国にしよう」とか、「日本人よ、市民として立ち上がれ」などという、ウォルフレンらに見られた暖かい「おせっかいさ」は全くなく、「国家として」もはやまともな行動力を失った日本を問題視することにもっぱら焦点が当てられている。彼らにとって、日本が近代化の優等生か否かといったことはこの際どうでもいい、といった感じである。いいかえるならば、国際社会の一員として日本がまともにその役割を果たしているか、あるいは果たしてその能力があるのかないのかといったことが、昨今の日本論の焦点といえる。
世界が日本を見る眼はかなり厳しくなってきている。これを「あらての黄禍論だ」などと咎める向きはさすがにないだろう。責めは我々のほうにあると素直に認めるしかない。国を率いるリーダーが存在しない国、得体の知れない権力構造によってまともな政治の舵取りがままならない国、そのような我が国のイメージが国際社会に定着しつつあるのだ。もはやだれも暖かい視線で日本を導こう、育てようとはしてはくれない。アジアにも、頼りになる国は他にある、と思われても仕方がないところまできている。
とにかく、国の舵取りができる人材、あるいはそのような舵取りを可能とする国のかたち、そして国際社会において進むべき指針、それが今の日本には決定的に欠けている、というのが国際社会の診断である。国が国たるために、欠けてはならない肝心かなめのものが欠けているというのだ。衆院選が近づいており、政権交代の可能性も取りざたされているが、世界がここに「チェンジ」の兆しを読み取ってくれるなどという甘い期待は禁物である。選挙の争点として「世襲議員」の政党公認の制限などが挙げられているが、大いに結構である。しかし、そんなことは入り口の、そのまた入り口の議論であるということ、問題の根は想像以上に深いこと、を有権者も政治家も肝に銘じるべきであろう。(おわり)
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