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2009-05-28 00:00
(連載)昨今の日本論の提起する問題の深刻さ(1)
矢野 卓也
日本国際フォーラム研究員
オランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンが1989年に出した『The Enigma of Japanese Power』という作品をご記憶の方は多いだろう。ジャパン・バッシング華やかかりし頃の日本論である。外から見て得体の知れない日本の国のかたち、とくに権力構造のかたちを真正面から解剖しようとした野心的な作品であった。邦訳も出たが、大変な評判となった。日本の「異質性」を衝く彼の議論に溜飲を下げる者もいれば、欧米基準で日本を裁く彼の尊大さを咎める者もいた。
ウォルフレンは当時「修正主義者(リヴィジョニスト)」という位置づけを受けていた。「修正主義」とは、それまで「近代化の優等生」なり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと称揚されていた日本を捉えなおす立場を言う。「ありのままの」日本を見ようではないか、日本はそれほど賞賛に値する国なのか、と問い直す趣旨である。結論としてウォルフレンらは、「日本は欧米から見て真の先進国ではない。抜本的な改革が必要だ」と日本人に呼びかけることとなった。
それから20年近く経った今日、海外における日本論は、問いの立て方が大幅に変化した。いうまでもなく、ウォルフレンが日本を解剖しようとした1980年代後半と今日では、国際社会における我が国の位置づけは大きく変わっている。よかれ悪しかれ我が国の大国ぶりが欧米諸国の目についた時代はとうに過ぎ去り、今ではジャパン・パッシング、そしてジャパン・バニッシングなどといった表現が聞かれる始末である。アジアの主役は、中国でありインドであるといった議論に、もはや誰も驚かなくなってしまった。
今から思えばウォルフレンらの日本論には、まだ暖かい目があったといえよう。なにせ、日本を真の先進国にしようと、ご丁寧にも診断書と処方箋を書いてくれたのである。そして、当の日本もそのような議論に真っ向から勝負する気概と体力があった。現在、日本の外で聞かれる日本論にそのような暖かさはない。いかなる危機にもまともな対処を施さない日本について、不可思議でも謎めいてでもなく、単に身動きのとれない二流三流のダメな国ではないのか、という醒めた視点が目立つようになったということになる。
そのような醒めた日本論として最近目立つのが、日本を率いるリーダーの資質、さらにいえばリーダーそのものの欠如を問う議論である。昨今の海外の論壇を見てみても、このような日本の「リーダーシップ欠如」を指摘する論文は少なくない。ここ数ヶ月、私が目を通したものだけでも、Tobias Harris氏の「Japan’s Leadership Deficit」(3月20日付ウェブ版Far Eastern Economic Review)、Richard J. Samuels氏の「Japan’s Lost Leaders」(4月11日付ウェブ版Newsweek)などがある。そしてつい先日、ロイター通信がChisa Fujiokaという日本人による「Japan school seeks solutions to leadership gulf」(5月10日付ウェブ版Reuters)という記事を全世界に配信してもいる。ちなみに、ここでいわれる「Japan school」とは松下政経塾のことである。(つづく)
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